2012年11月14日
食堂の味はおふくろの味(5回シリーズ:第1回)
きょう、平成24年11月14日は、
私の従姉(実母の姉の娘)美佐子ちゃんが
7歳の幼い命を終え日から
ちょうど50年目にあたります。
50年前の昭和37年11月上旬、
私は宮崎駅近くの産院で生まれました。
その同じ月のきょう、美佐子ちゃんは
あの世へ旅立ちました。
その後、美佐子ちゃんの母である伯母が
母の実家でうどん屋を営みながら、
赤ん坊の頃から私の面倒をみてくれました。
その当時のちょっとした話を、
昨年、平成23年(2011年)、
名古屋の東海志にせの会発行「あじくりげ」
10月号にグルメエッセイを執筆させて
いただきました。
美佐子ちゃんの50年目の命日のきょうから、
その時のエッセイを5回連続で、
みなさんにも読んでいただこうと思いまして
ご紹介いたします。
「あじくりげ」 2011年10月号 より
タイトル「食堂の味はおふくろの味」
第1回
私は、宮崎駅近くの食堂で育ちました。父
方の両親はすでに他界し、両親共出張や夜勤
の多い勤務に就いておりましたので、職場に
も近い母の実家が私の庭となりました。
私が生まれた昭和三十七年当時、すでに伯
母に夫はなく、七歳になったばかりの一人娘
のために、実家の一階を改装して小さな食堂
を営んでおりました。まだ健在だった祖父母
も朝早くからお店で汗を流し、また、私の両
親も助力を惜しまなかったそうです。
しかし、私が宮崎市内の産院から産着にく
るまれ戻って間もなく、この家で悲しい出来
事がありました。私が生まれる前の数年間、
伯母も祖父母も、そして私の両親も幼い命を
助けたい! と必死だったそうです。
昭和三十年代、誰でもが滅多に乗らない飛
行機に母娘を乗せて、福岡県にある九州大学
病院へ入退院、手術を繰り返したそうです。
が、脳腫瘍という病気には勝てず、私が生を
受けた日から十二日後、従姉の魂は家を離れ
七歳であの世に旅立ちましたー。
私の従姉(実母の姉の娘)美佐子ちゃんが
7歳の幼い命を終え日から
ちょうど50年目にあたります。
50年前の昭和37年11月上旬、
私は宮崎駅近くの産院で生まれました。
その同じ月のきょう、美佐子ちゃんは
あの世へ旅立ちました。
その後、美佐子ちゃんの母である伯母が
母の実家でうどん屋を営みながら、
赤ん坊の頃から私の面倒をみてくれました。
その当時のちょっとした話を、
昨年、平成23年(2011年)、
名古屋の東海志にせの会発行「あじくりげ」
10月号にグルメエッセイを執筆させて
いただきました。
美佐子ちゃんの50年目の命日のきょうから、
その時のエッセイを5回連続で、
みなさんにも読んでいただこうと思いまして
ご紹介いたします。
「あじくりげ」 2011年10月号 より
タイトル「食堂の味はおふくろの味」
第1回
私は、宮崎駅近くの食堂で育ちました。父
方の両親はすでに他界し、両親共出張や夜勤
の多い勤務に就いておりましたので、職場に
も近い母の実家が私の庭となりました。
私が生まれた昭和三十七年当時、すでに伯
母に夫はなく、七歳になったばかりの一人娘
のために、実家の一階を改装して小さな食堂
を営んでおりました。まだ健在だった祖父母
も朝早くからお店で汗を流し、また、私の両
親も助力を惜しまなかったそうです。
しかし、私が宮崎市内の産院から産着にく
るまれ戻って間もなく、この家で悲しい出来
事がありました。私が生まれる前の数年間、
伯母も祖父母も、そして私の両親も幼い命を
助けたい! と必死だったそうです。
昭和三十年代、誰でもが滅多に乗らない飛
行機に母娘を乗せて、福岡県にある九州大学
病院へ入退院、手術を繰り返したそうです。
が、脳腫瘍という病気には勝てず、私が生を
受けた日から十二日後、従姉の魂は家を離れ
七歳であの世に旅立ちましたー。